前回、「オジサンたちは変わらなければならない」というブログ記事を書いた。
実は、もともとこの記事で書こうとしていたのは、
「これから世の中は大きく変わっていくはずだ」
「前例踏襲ではなく、時代の変化を予測して動く必要がある」
「それは簡単なことではないので、むしろ自分が好きなことを中心にして生きることが合理的だ」
ということだった。
なんとなく、自分の中のルサンチマンが勝ってしまい、「変わらない」オジサンたちを批判する論調に終始してしまった。反省。
ところで、自分は長らく証券会社はじめ金融の世界に身を置いてきた。主に個人投資家を対象とするリテール金融のカテゴリーにいたわけだが、その過程で「個人が投資(資産運用)を考えることは、すなわち自分の人生を考えること」だと感じるようになった。
【注:以下の記述内容は筆者の資産運用に対する考え(概念)を述べているにすぎず、投資勧誘や営業活動ならびに特定の投資対象の推奨および投資情報の提供を行う意図はありません。また、一般論ですが、投資に対する責任はあくまでも投資家本人にあります】
これには二つの側面がある。
一つは、ファイナンシャル(ライフ)プランナーがよく言う、
「ライフプランを立てて、自身のリスク許容度に従って分散投資を行い、長期運用しましょう」
という“王道的な”考えだ。
もう一つは真逆で、
「ライフプランなど無意味。でも、人生をどう生きるか考え選択する工程は資産運用に似ているかもしれません。だから、人生の局面で都度選択をするために継続して資産運用を考えるべきです」
という、(おそらく)自分が勝手に導き出した考えだ。
今は、完全に後者が資産運用の要諦だと思っている。
自分は山一証券でも山一自主廃業後に勤めたメリルリンチ日本証券(リテール)でも投資信託の管理の仕事をしていた。
割り当て営業に終始していた感がある山一と違い、メリルでは当時、「日本でまだ定着していないライフプランに基づいた投資方法を世に広め、個人の資産形成に寄与する」といったミッションを掲げ、その戦略商品が投資信託だった。
だから、自分も当時、個人の資産運用を考える際は、「人生のステージを考えてライフプランを立て資金需要予測を行い、組み立てた投資プランに沿った投資を行う」のが正しいことだ、と考えていた。
しかし、自分が組織から離れる選択をしたこともあり、年を経てこの考え方に徐々に疑問を抱くようになってきた。資産運用というよりは、もっと大きな枠組みについての疑問だ。それは、
「人は、そもそも自分が想定した人生など歩めるものなのだろうか?」
ということだ。
ライフプランのシナリオ上のイベントである「結婚」「出産」「マイホーム購入」など、果たして計画通りにこなして生きていけるものか。いや、人生はそんなに単純ではないはずだ。
定時定額投資を継続する場合、そのキャッシュを獲得するには勤めている会社に勤め続けることがある種の前提になる(もちろん、転職して同額以上の収入を得ることもありうるが)。
でも、昭和の年功序列・生涯1社勤務の時代と違い、今は企業の方が従業員を取捨選択し、リストラの可能性も増している。
企業の存続サイクルも早くなり、 “名のある”企業の少なくない数が競争力低下に陥っている(何のために存続しているの?というケースも)。
そもそも自分自身が山一証券の破綻を経験しているではないか。自分の場合は「投資信託の管理」という汎用的なジョブスキルのため別の金融機関にスライドすることができたが、では、そのジョブスキルが周囲の環境変化で“使えない”ものになってしまったら?
あるいは、将来的にもしかすると“使えなく”なるかもしれない仕事にしがみつくことを前提に自分のライフプランを描く、ということはどういうことか?
それは、ただただ味気ない人生を歩む、という決断ではないのか?
自分がそんな「資産運用」についての迷いを抱えていたころは、人生でも迷いが続いていたころだ。今から15年くらい前で、すでに転職市場はほぼ閉ざされつつある年齢だったが、「果たして、このまま今の仕事を続けていくべきかどうか」を悩み続けていた。
そこには、自分自身がその業務になじむか否か、という観点も、この仕事を続けることで将来的にどうなのか、という観点もあった。
実際、周りの同世代の(主に大企業に勤める)友人・知人にも同様の悩みを抱えながら日々日常を送っている方々が少なからずいた。知り合い以外でもニュースなどで我々世代の職場での閉塞感が伝えられていた。
「日本は変わらなければならないのではないか? この世代は世の中が変わらなければ、ぎりぎり恩恵を受けられる最後の世代であり、もし世の中が変われば、最も痛手を負う世代なのではないか?」
「これから世の中は“バブル世代バッシング”を始めるよ」
当時(チャレンジを始めたころ)、身近な友人にSNSでそんなメッセージを送ったりしていた。
(参照:「「変われない」のか「変わりたくない」のか」))
自分が長く続いた組織人生活を切り上げて、当時勃興しつつあった「コンテンツファイナンス」のチャレンジすることを決めたのは、このような思いと、後述するように「“知”という無形資産」を持つ・アレンジする取り組みには勝算がある、という考えがあったからだ。
これは、「これから世の中はどのように変わるか」という予測から導き出したものだ。
残念ながら、現時点で答えを出せば、その勝算は間違っていたことになる(ただし、これからもチャンスはあると信じている)。
なお、このチャレンジを今に至ってあきらめずに継続しているのは、すでに「勝算がある」という思いからではない。
このチャレンジの初頭は、あくまで仕事としてこのジャンルに可能性がある、という視点で取り組んでいた。しかし、その過程で自分が脚本を書いた映画企画がエンジェル大賞を受賞し、映画関連業界に入って以降、様々なクリエイティビティのある方々と接することで、自分が作品をクリエイトする、ほかの人のクリエイションに関与する、といったことに価値を見出したからだ。
一言でいうと「楽しい(Fun)!」ということだ。そして、人間、これがないと“あきらめず続ける”ことはできないだろう。
これまで、
「エンタメとファイナンスをグローバルにつなぐクリエイティブ人材」
という姿を目標に、様々な人とかかわり、様々な取り組みを行ってきた。
このチャレンジは、
「自身の『Fun!』を軸に『世の中はどのように変わるか』を問い続ける」
「その思索のもと、新しいビジネスモデル/ビジネスプランを生み出す」
という努力に変わっていった。
正直、「成功した」と人に誇れるものは何一つない。だからと言ってこれまでのチャレンジを卑下する気持ちは毛頭なく、自分の取り組みの軌跡は間違っていないと考えている。
自分のバックボーンである金融ビジネスも、年を取ってから参入したエンタメビジネスも、いずれも「変わらなければ」という対象だ。
そして、岩盤のように不動だったどちらの業界も、今、ようやく目に見えて変わり始め、あるいは変わりだそうとしている。
このブログでいろいろ取り上げているように、金融の世界はデジタルの流れで大きく変わるだろうし(下手したらe-コマースに取り込まれる?)、エンタメの世界も“新しい映画(広義)”の世界が見えてきつつある。
変化はチャンス、だ。
今、「徳の経済」を説き、「アドコマース」のビジネスを様々な先に打診しているのは、突飛なことでもなんでもなく、「エンタメとファイナンスをグローバルにつなぐ」思索とチャレンジのプロセスの結果、導き出された(導かれた?)ものなのだ。
さて、実は、自分が「『世の中はどのように変わるか』を問う」必要性を説いた古い資料が残っている。2002年12月、もう20年近く前のものだ。
少数の友人たちとの「10年後に1億円貯めるにはどうすればよいか?」を検討する会合で各々がプレゼンする、という取り組みの際に作ったものだ。
この会合は“お遊び”的なものだったので、適当に発表してもよかったのだが、ちょうど当時、メリルでのリストラが決まり社内で時間をつぶしている時期だったので、その時間も利用してかなり“ガチ”なものになった。
●どうやったらあなたは10年後までに1億円を貯められるか? TASC1oku_rev2012
詳しくは資料を参照してほしいが、簡単にまとめると、こんな内容だ。
・現在の貯蓄環境と将来を見据え、「目標1億円」のチャレンジは検討に値する(~10p)
・余資運用・分散投資で「目標1億円」は無理(11~17p)
・手段は「余裕資金を増やす」「レバレッジ」「集中投資」しかない(18p)
・P/LでなくB/Sで稼ぐ。これは株式投資だけでなく「事業」「作家になる」もあり★(19、20p)
・それには「未来を読む」が大事(20p)
・グローバル化、バランスシート不況、資本市場への期待、高齢化などの問題(21~36p)
(・本来、中小企業の中に将来の日本を担う企業がある。銀行の信用余力回復を△(30p))
(・新しい投資対象としての無形資産・知的財産(著作権、特許など)★(p34))
・グローバルデフレ、米国覇権→米中2大巨軸へ(37、38p)
・「中国」(39p~)
自分が選択した方向性(★)はともかく、ここでの思考方向性、「未来を読む」方向性は、説得力のある結果を出しており、これについては誇ってもいいと思っている。
もちろん、すべて自分の頭で考えたなどというつもりはない。データを含め当時の様々な文献や多くの識者の意見も参考に組み立てたものだが、それでも、自分の頭で“ぐるぐると”考え、整理したものだからだ。
残念ながらこの資料は机上の空論となり、自分はリスクを負ってレバレッジをかけて中国関連株に投資することはなかったし、その会合参加者たちからの関心は得たものの、誰かの役に立ったわけでもない。
しかし、自分がその後、リスクをとってクリエイションの世界に飛び込んだのは、この時の考察が一つの起点だった、と思っている。
ところで、資料で考察した「10年後」からさらに10年がたった今、当時描いていた未来は、新たなステージへと移行しつつある。
これまで拡大一方向だった「グローバリズム」は折り返し地点を超え、「米中対立」で世界は分断されようとしている。今のコロナ禍の先にはこれまでとは全く違う風景が見えていることだろう。
そんな中、本来育つべきだった(上記△)日本の次を担う企業は現時点では出現しておらず、日本経済は正念場に来ている。
今こそ、我々一人一人が「世の中はどのように変わるか」を考えて行動することが求められている。
このブログの表題に「投資を考えることは人生を考えることだ」と書いたように、「行動」にはお金を使った行動=「投資」も含まれる。
お恥ずかしながら、現時点で確固たるシナリオを持っているわけではない。それでも、様々な文献や識者の意見を集め、自ら未来を読んでいきたいと思う。
(例えば、最近読んだ塚口直史さんの『コロナショック後を生き残る日本と世界のシナリオ』の「ロシア」の可能性など、なるほど!と思わされたりしている)
ただ、なんとなく思うのは、これからの世界は、自らの頭で“ぐるぐると”考える人たちがつながり、あるいは、自分の“Fun!”を軸に人とつながる様々な「コミュニティ」がいたるところで形成されてくると思う。その連携は、デジタルの世界でグローバルに広がるものになる。
(現在、金融の仲介ビジネスに携わる人は、このあたりに勝機がある気がする)
そして、その中で「共助」のカタチが形成されてくるように思う(別に菅首相の「自助・共助・公助」発言に忖度しているわけではないので、ご了承ください)。
というわけで、最後はいつもの我田引水。
自分は「徳の経済」を掲げ、新しい「共助」のカタチを提案している。願わくば、この構想に、今、頭を“ぐるぐると”めぐらしている方々のご参入を願いたいと希望している。
特に、今回書いた、自分が投資に人生に“ぐるぐると”考えて行動してきたことを理解している方々には、できればポジティブな思いを持ってもらいたい、と、勝手ながら期待している。