●菅改革に日本医師会が抵抗 オンライン診療や不妊治療(日本経済新聞 2020/10/4 2:00)
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO64591200T01C20A0EA3000/

デジタル化を推進しようとする菅政権の意向に対し、日本医師会が難色を示している、というニュース。
(日経の記事に政権の意向が反映されるのは常なので、一定のバイアスは乗っかっているかもしれない)
コロナ過でこの4月から初診を含むオンライン診療を時限措置で全面的に解禁したが、医師会的にはこれの恒久化はやめてね、ということのようだ。

この記事では医師会を既得権益への「抵抗勢力」と位置づけている。オンライン診療も万能ツールではないので解釈の是非はともかくとして、自分も今後オンライン診療を積極活用すべきという点には全く同意だ。
これまでどれくらいの患者が利用してきたかはつまびらかでないが、遠隔医療を利用した人は、間違いなくその便利さを実感しているはずだ。テレワーク促進の流れが不可逆なのと同様で、この流れにさおさすべきではないと思う。

ところで、日本では「抵抗勢力」「岩盤規制」といった言葉が常に付きまとい、「構造改革」をうたった小泉改革のころから20年が経っても社会構造はあまり変わっていない。
いや、小泉・竹中改革以降、グローバリストたちの口車に乗って新自由主義的な政策が実施され、企業や土地を外資に譲り渡し、非正規雇用者が増大し「自己責任」のもと国民はリスクにさらされるようになり、格差社会が実現したではないか、という声もあるだろう。
それについては、確かにその通りだ。

実際、自分などは“寄らば大樹”だった山一證券が潰れて根無し草になり、その後の職の変遷の中で非正規社員やアルバイトなど不安定な状況にも陥り、構造改革のマイナスの恩恵を受け続けていると言えるのかもしれない。

しかし、自分のもう一方の目からは、依然“変わらない”日本社会が見えてしまっている。
自分の立ち位置が坂を転がり落ちるように(?)不安定化した一方で、一部の公務員や大企業の正規雇用者を中心に「以前と全く同じモチベーションで生きている」人たちの姿がとにかく目についてしまうのだ。

よく、30年前のバブルのころと比べた日本企業の競争力低下を象徴する事例として、「世界の株式時価総額TOP20から日本企業が消えた」ことが取り上げられる。
以下の数値を見ると、この「30年間」、いかに日本企業が国際競争力をなくし続けているかがわかる。
・1989年:15社 NTTをトップにほとんどが日本企業
・2000年:3社 NTTドコモ、NTT、トヨタ(3/30時点)
・2020年:0社 トヨタの34位が最高(1/20時点)
(以下の2記事よりカウント:https://finance-gfp.com/?p=3680 / https://www.m-invester.com/entry/2019/03/13/115848

ほんと、「バブルのころの日本はよかったのに、平成を経て日本は凋落しちまったもんだ」とため息が出る。
しかし、バブルが崩壊し小泉内閣が「構造改革」を叫んだ2000年代初頭から比べても、この「20年間」でも“凋落”し続けてしまったのはいったいどういうことだろうか?

こちらのサイト(https://ecodb.net/ranking/old/imf_ngdpdpc_2000.html)の数値を参考にすれば、「一人当たりGDP」の数値は、2000年ではまだ日本は世界第2位だったようだ。現在は26位でアジアでも第3位。ほぼ韓国と同じ。
一方、同じデータ比較で顕著なのが、同期間で“日本だけ”が全く伸びていないこと。
・アメリカ:36,317.74→62,868.92USD (1.73倍)
・中国:958.57→9,580.24 USD (9.99倍)
・韓国:12,257.02→33,319.99 USD (2.71倍)
・日本:38,535.59→39,303.96 USD (1.01倍)

これを「グローバリズムと新自由主義的政策のせいだ」という人も多いだろう。それはその通りかもしれない。たしかに、2001年小泉政権以降、目に見えて一人当たりGDPの順位は下がり続けている。
この期間に非正規雇用者が増え、結果、日本社会が分断されてきたのもまぎれもない事実だ。結局、新自由主義的政策は多くの国民を貧困化させ、竹中平蔵氏率いる(?)パソナなど人材派遣会社を儲けさせるためにしかならなかった、と恨み節を叩かれても仕方がないかもしれない。
しかし、同じ期間で「ほかの国は曲がりなりにも『成長』を見せている」のだ。

上で参照した世界の時価総額企業の顔ぶれを見ると、特にリーマンショック以降にGAFA・BATHなどのIT大手が跋扈しているのがわかる。彼らはいずれも歴史の浅い新しい企業だ。

一方で、日本の時価総額上位企業の多くは歴史のある古い企業だ(https://www.nikkei.com/markets/ranking/page/?bd=caphigh)。グローバルに活躍する企業は多いが、そのほとんどはグローバルなサプライチェーンの中で高付加価値の素材や部品などを提供する立ち位置にいる企業だ(悪く言うと”下請け”だ)。
それが悪い、というわけではないが、かつてのトヨタや電機メーカー大手などのように世界を席巻する製品やサービスを提供する企業はほとんどなくなってしまった。
結局、日本は企業がグローバル競争に敗れたせいで現在の体たらくなのだ。あるいは、新しい革新的な製品・サービスを持つグローバルに通用する企業が生まれなかったため、と言ってもいい。

グローバリズムはどの国にも等しく強者と弱者の分断、一部への富の集中と多くの貧困層をもたらせた。
どの国でも一部の高度なスキルを持つ者を除き労働者は安く叩かれ、資産は“持つ者”の下で増加する。非正規が増え貧困者が増えている今の日本の現状は、グローバルスタンダードなのだ。
それでも、日本の一人当たりGDPを押し上げる成長企業、グローバルに競争力を持ち日本をけん引する企業が生まれていれば、多少の状況は違ったはずだ。
日本だけが一人負けし、20年間全く成長できなかったのは、グローバル競争を担う日本の大企業がずっと“ダメダメ”だった、ということに尽きる。

一方、中の人たちは大した自覚もないまま無気力に“オジサン化”していっている。そんな彼らの「変わりたくない」「チャレンジしたくない」志向性のせいで、一部の変わろうとする人たちの芽が摘まれてしまったことも多かったに違いない。彼らはひと世代下のチャレンジャーには寛容だが、同世代の改革者にはシビアなのだ・・・などと書くと、「それはお前のルサンチマンだろう」と言われてしまうだろうか。

自分が、“変わらない”日本社会として、常に忸怩たる思いの視線の先にあるのは、まさに彼らなのだ(それを象徴するのが経団連、というと怒られてしまうだろうか?)。
彼らの多くは日本社会(特に国内市場)の中で規制に守られて生きている。

ここ(「いいと思います。あとは・・・」)ここ(「『データ覇権争いと日本』からの雑感」)ここ(「シンガポールのネット銀行にe-スポーツ企業が参入」)ここ(「「変われない」のか「変わりたくない」のか」)などでずっと書いているように、「ベンチャー企業を生み、育てる」「ベンチャースピリットを持った人材を貴ぶ」「そのためには変な年齢差別も行わないようにする」べし、と自分が提言するのは、さすがにそろそろ変わらないと日本が立ち直れないぐらい没落してしまうという危機感があるからだ。
(しかも、その場合、自分のような不安定な立場にいるものの方が“本来、変わらなければならない”方々より著しく大変なことになってしまうのだ)

ところで、リーマンショックを経てトランプ政権が誕生して以降、世界の趨勢はそれまでのグローバリズム一辺倒から、むしろ反グローバリズム・反新自由主義・自国優先主義を掲げる動きが増している。
そんな傾向から、日本はこのまま規制を堅持して(日本市場への参入障壁を上げ)グローバル競争を回避し、企業は国内回帰して、なるべく既存の体制を守るよう動くべきだ、と主張する方もいる。極端な民営化の回避や反移民政策など、その主張には確かに説得力もある。
最近では中国はじめ外国にある工場を国内に移転させる企業も増えており、日本政府はこれらの企業補助金を出すことを決めている。むろん、これは国内回帰志向というよりむしろ「米中対立」の影響もある。
今後、米中対立の影響でサプライチェーンと市場が米中両陣営に分断されてくるだろう。その結果、これまでターゲットとしていた市場がシュリンクしてしまう恐れがある。
おのずと国内回帰、となるだろうし、その結果、「変わらなくていいよ」オジサンたちはこのまま生き残りを図ろうとするかもしれない。

自分は(現在の恵まれない立ち位置からも?)グローバリズムをことさら礼賛するつもりはない。日本の安全保障の観点からも、これまでやや行き過ぎた新自由主義的な流れを、多少プロテクティブな形にすることもやむを得ないと思っている。
しかし、例えばこれから日本が新自由主義を否定して内向きな政策を取ろうが、成長企業や産業を持たなければ、そこに伸びしろはないも同然だ。そうなると、日本国民は総じて貧困化して不幸になってしまうのではないか。
どっちにしたって、オジサンたちは変わらなければならないはずだ。

日本ではこれまで労働政策において、高度プロフェッショナル制度(≒ホワイトカラーエグゼンプション?)や副業解禁など、自ら高付加価値を求める人材が組織内の横並びではない“稼ぎ方”や“評価”を得るすべを与える施策が施行されてきた。
また、コロナ禍を経験し、リモートワークが定着する中で、組織に時間的・物理的に拘束され続けずに働く形態が定着しつつある。
「それらは新自由主義者の陰謀で、企業は賃金に責任を持たなくなり、労働者が搾取される悪しき政策だ」などという声を聞いたりする。その点は一面においてわからなくもない。
しかし、これらはチャンスでもあるはずだ。

組織に対するフリーハンドや時間という武器を手にしたオジサンたちが、各々、新たな価値創造を行える時代が到来しつつある、といえるかもしれない(本来、対象はオジサンたちに限らないが、文章の流れ上、こう書く)。
実際、自分の周りには「付加価値を持つ仲間」を集めて顧客に多面的なサービスを提供しようとしているプライベートバンカーなど、変化に向けて動き出した人もいる。
そんな大層な動きでなくても、例えば趣味をユーチューブ上げて広告収入を得ようとしているオジサンたちもいるだろう。これだって立派な“チャレンジ”だ。

正直、オンライン診療の件で菅政権がことさら日本医師会を抵抗勢力に位置付けて改革を進めようとすることが適切かは分からないが、少なくてもこういった変化を推奨する姿勢を国民に示すことには素直に共感する。
デジタル庁も、(以前、ここ(「『データ覇権争いと日本』からの雑感」)に書いたように)今更感もあるしスピード感にやや疑問があったりもするが、それでも変化への姿勢を見せることは大事だと思うし、その象徴として評価している。

そろそろ、どん詰まりの日本を変えていかなければならない。組織や既存の枠組みの中で危機意識なく過ごしてきたオジサンたちは、変わっていかなければならない。
非常に偉そうな書きぶりで恐縮だが、自分は身に染みてそう感じている。

さて、最後にいつもの我田引水(このブログの決まり)。
新自由主義的グローバリズムがもたらすものは「欲の経済」で、その行き着く先が強者が弱者を蹂躙し支配するディストピアとするなら、我々はそれとは別の「徳の経済」も、もう片方に持っておく必要があるのではないだろうか?
アドコマースはその一助になるはずだ。