だからといって、日本のコンテンツが「全て海外のプラットフォーマーに持っていかれる」わけではない。
むしろ、こういったグローバル・プラットフォームが出来上がることで、コンテンツの権利者に様々な収益機会が生じるであろうことは間違いない。
そしてそれは、前に書いた通り、将来の収益期待を見越したリスクマネーを供給する投資家を呼び込むことにもつながる。
更に、NETFLIXなどデータの裏付けが有るグローバル・プラットフォーマーでの配給期間経過後は、その作品の潜在的資産価値も測定しうると考えられる。
それは、権利者にとっては転売市場の存在を意味する。
作品が複数のグローバル・プラットフォーマー上でどう消費されたか、あるいは、複数の作品がどういう相関性を持っていたか、等々のトラックレコードを利用できるのであれば、投資家にとっては非常に有益な判断材料となるだろう。
残念ながら、おそらく、ほとんどの作品にはさほどの財産的価値は認められないだろうが、それでも、一部の作品には長期的な価値評価が付くだろうし、その権利を求める需要は場合によれば半永久的にあるかもしれない。
角川会長が講演でおっしゃられたように、巨大プラットフォーマーが搾取に走るのは、ある程度やむをえまい。
それでもなお、いずれ構築されていくであろう新たな「グローバルなコンテンツ流通のエコシステム」においては、「コンテンツ・イズ・キング」なのだ、と思いたい。
楽観的過ぎるだろうか?
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[…] このブログを書き始めた2018年から、Netflix絡みの記事を何度か書いてきた。 初回記事の『「コンテンツ・イズ・キング」は幻か?①』~⑨では、Netflixのようなグローバルなプラットフォーマーあってこそ「コンテンツ・イズ・キング」すなわち、テレビ局のような「流通側」ではない「クリエイティブ側」の価値が高まるのであって、権威主義的な映画祭などよりもNetflixのようなグローバル・プラットフォームの評価機能の方がフェアであり、そういうデータを得ることで、エンタメ・ファイナンス、コンテンツ・ファイナンスのニーズが高まるかもしれない、という希望観測を書いた。 2018年5月28日『NETFLIXに関する特集記事を読んで、雑記。』では、彼らが得る個人データと広告利用について。 2021年2月13日『アニメ業界・Netflixの急速な変化と「民主的」コンテンツ製作(考察)』では、3年前に『「コンテンツ・イズ・キング」は幻か?③』で書いた「Netflixはコンテンツの著作権を持っていかない」は間違いで、今の同社はスタジオ化を目指す方向だが、それでもがっかりする必要はない。 「スタジオ・プラットフォーマー(流通側)とのパワーゲームの中で、“制作者・クリエイティブ側”は、ファイナンスや収益ウィンドウの面で、彼らに負けない武器を持つ必要がある」 という趣旨の文を書いた。 (他でも書いたかもしれないが、全部見直せないので、このくらいに。) […]
[…] このブログを書き始めた2018年から、Netflix絡みの記事を何度か書いてきた。 初回記事の『「コンテンツ・イズ・キング」は幻か?①』~⑨では、Netflixのようなグローバルなプラットフォーマーあってこそ「コンテンツ・イズ・キング」すなわち、テレビ局のような「流通側」ではない「クリエイティブ側」の価値が高まるのであって、権威主義的な映画祭などよりもNetflixのようなグローバル・プラットフォームの評価機能の方がフェアであり、そういうデータを得ることで、エンタメ・ファイナンス、コンテンツ・ファイナンスのニーズが高まるかもしれない、という希望観測を書いた。 2018年5月28日『NETFLIXに関する特集記事を読んで、雑記。』では、彼らが得る個人データと広告利用について。 2021年2月13日『アニメ業界・Netflixの急速な変化と「民主的」コンテンツ製作(考察)』では、3年前に『「コンテンツ・イズ・キング」は幻か?③』で書いた「Netflixはコンテンツの著作権を持っていかない」は間違いで、今の同社はスタジオ化を目指す方向だが、それでもがっかりする必要はない。 「スタジオ・プラットフォーマー(流通側)とのパワーゲームの中で、“制作者・クリエイティブ側”は、ファイナンスや収益ウィンドウの面で、彼らに負けない武器を持つ必要がある」 という趣旨の文を書いた。 (他でも書いたかもしれないが、全部見直せないので、このくらいに。) […]
[…] このブログを書き始めた2018年から、Netflix絡みの記事を何度か書いてきた。 初回記事の『「コンテンツ・イズ・キング」は幻か?①』~⑨では、Netflixのようなグローバルなプラットフォーマーあってこそ「コンテンツ・イズ・キング」すなわち、テレビ局のような「流通側」ではない「クリエイティブ側」の価値が高まるのであって、権威主義的な映画祭などよりもNetflixのようなグローバル・プラットフォームの評価機能の方がフェアであり、そういうデータを得ることで、エンタメ・ファイナンス、コンテンツ・ファイナンスのニーズが高まるかもしれない、という希望観測を書いた。 2018年5月28日『NETFLIXに関する特集記事を読んで、雑記。』では、彼らが得る個人データと広告利用について。 2021年2月13日『アニメ業界・Netflixの急速な変化と「民主的」コンテンツ製作(考察)』では、3年前に『「コンテンツ・イズ・キング」は幻か?③』で書いた「Netflixはコンテンツの著作権を持っていかない」は間違いで、今の同社はスタジオ化を目指す方向だが、それでもがっかりする必要はなく、 「スタジオ・プラットフォーマー(流通側)とのパワーゲームの中で、“制作者・クリエイティブ側”は、ファイナンスや収益ウィンドウの面で、彼らに負けない武器を持つ必要がある」 という趣旨の文を書いた。 (他でも書いたかもしれないが、全部見直せないので、このくらいに。) […]