前年のNHK特集「インパール」でも全く同じ構図を見た。陸軍だけじゃなく、海軍だってガダルカナルなどで不条理な上の決断で多くの犠牲が出た(結果論でものを語るべきではないのかもしれないが)。そこに対しても大きな責任追及はされていない。
こういう番組を見ると、自身同様、つい「駒」側の目線で見てしまう。おそらく、大半の国民もそうだろう。
一方で、現在、大企業のトップや高級官僚の地位にある方々は、どういう立ち位置や思い出で見るのだろうか。少なくとも、勧善懲悪な「あの若手参謀こそ大悪人」「上層部が悪い。現場はいつも被害者」という単純図式では見ないだろう。そうであってほしいとも思う。
実際、物事を単純視しないその視点こそ正しい。判断がもたらす結果というのはそもそも紙一重だし、虫眼鏡で見れば、当時の現場には被害者面した加害者も多かったことだろう。
歴史から学ぶべきは、抗い得ない大きなうねりの中で、その時々に様々な立場にいた人々が個々でどう決断し行動したかであって、結果論で“犯人捜し”のみをすることではないからだ。
(それこそ、結果論と言われそうだが)先の戦争では、軍部から国民に至るまで、個々の判断が常に「右へ倣え」で、個人の意見や意思というものが発揮されなかった。むしろ発揮できる環境ではなかった、というべきかもしれないが。
とはいえ、すべて「空気」のせいにして個人の選択(=積極的に“前例を改めよう”という行動を起こさない、という選択)についての責任を述べないのはフェアではない気がする。
昔の人のことを言えた義理ではない。
社会に出ると、集団の中で自分の意見を通す、とか、人と違った行動をする、といったことが、いかに大変かわかる。
大いに成果を上げており、かつ、周知から信頼されている優秀な人間ですら、自ら前例を改め、新しい考えを持ち込んで皆を率いることは難しいことだ。
優秀でも何でもない人間の「今や我々は変わるべき時です!」などという諫言は、「鼻くそが何を言っている」程度の扱いしか受けないものだ。
(そして、当人はせいぜい、「けっ。てめえだって、ただの目くそじゃねえか」と世をすねるくらいしかできないのが世の常だ)
昔、山一證券という会社にいた。最初の数年間は支店営業だった。自慢じゃないが、最初の数か月間を除き、あまりできない営業マンだった。本当に自慢じゃないが。
毎日、「・・・マルです」とささやくように上司に告げる胸の辛さや、これ如何に。
世間一般では素敵なイメージがある「マル」という言葉は、どういうわけだか証券マンにとっては悪夢の言葉になる。
実際、自分と1年下の後輩が個室に呼び出され、隣の課の課長様お二人から「おめぇらが(割り当ての)数字上げないから、お前んとこの課長がわざわざやらなくてもいい数字作って、店の数字埋めてくれてんだぞっ!」「ほんと、頼むから辞めてくんねえかなぁ・・・」などと詰め寄られ、靴の先だけ見つめ続けたこともある。ホント、野村だったら間違いなく辞めていただろうな。うちの課長は優しい良い方だったので本当に感謝している(お元気だろうか、Yさん)。